日本人として生きていく

パラグアイ、イグアス日本人移住区を訪ねた。

南米に行ったら、どこか日本人移住区を訪ねたいと思っていた。
地球の反対側に住んでいる同胞が、何を思い、何をしてきたのか。
同胞、この言葉をここに来るまで使ったことはなかった。
同じ故郷を持ち、同じ言葉を話し、同じ何かを信じたことのある人々を表現できる言葉がほかに思い浮かばない。

南米には、世界中から移住者が集まっている。
その中でも、日本人移住区に行きたかった。
それは、私が日本人だという証で、間違いなく日本に帰属意識がある証なのかもしれない。

移民、この言葉には不幸な響きがある。
日本で移民といえば、家族と離れ離れになったり、現地に行ってから風土病が流行って亡くなる人が出たり、作物の根付けが上手くいかなかったりと、大変な苦労や不幸な話ばかりがクローズアップされている。
映画やドラマなどでは、それを乗り越えて成功や幸せを掴むという結末になるのだが、移民=苦労人というイメージが作られていることにかわりはないだろう。
移民=苦労した偉い人、それは一面の真実に違いないが、本当にそれだけなのだろうか。

移住地に来て、移民資料館を訪れた。

未開のジャングルを開拓する苦労を垣間見て、なんて大変なことがあったのだろうと思った。
同じ日本人が、人の生きることの出来ない土地を耕し、現地の人の生活まで潤すことに成功している。
カンボジアの学校を更地に建てるだけでものすごく苦労したのに、森を切り開くことから始まる作業の途方もなさを思うと、目が眩むようだった。
日系2世の女の子が「この土地を作る時の苦労を聞かれたら、木を一本指して、あれを1本切るのってどれくらい大変だと思う」と聞くことにしていると言っていた。
桜の木ほどの太さを想像してくれたらいい。
確かに、そんな木ばかりの土地を畑にするのは、果てしない作業だ。

移民資料館を案内してくれたのは日系3世の男の子だった。
まだ21歳だが、おじいちゃんやおばあちゃんの世代の話まで良く知っていて、とても丁寧に教えてくれた。
移民の歴史は調べればいくらでもわかることなので、ここでは割愛させてもらう。
興味のある人はぜひ、調べてみてほしいし、知って欲しいことがたくさんある。
私が何を一番に言いたいかというと、おじいちゃん、おばあちゃんの若かったころの日本を、私たちの世代がどれだけ知っているかということだ。
彼は、しっかりと記憶を受け継いで、自分のやるべきことをやっている。
日本に住んだことはなくても、日本人の記憶を持ち、日本の言葉を話し、日本人特有の柔らかな優しさを、日本に住む私たちより持っている。

私はここで、みんなと一緒に釣りに行ったり、料理したり、卓球したり、マージャンしたり、なんだか日本と似たような生活をしていた。
そして移住地の人たちが、みんなどこかでつながっている、小さな共同体の一員であることがわかると、なんだかうらやましくなった。
私が住んでいた日本にはもう無くなってしまっていたコミュニティが、ここにはまだ存続していて、みんなが一人を見守っていて、一人がみんなのことを気にかけている。

日本から離れたからこそ、助け合わなくてはいけなかった。
人数が少ないから、関係が薄れることがなかった。
人とまじめに向き合うから、誠実で優しい人間が育った。
こうして、日本よりも日本の持っていた良さを、受け継いでいる。

そう思ったら、悔しくなった。

移民は苦労した偉い人、もちろんそれは変わらない。
でも、私のおじいちゃんやおばあちゃんだって、戦争を生き抜き、戦後貧しい中を苦労して、未来をつないできた偉い人たちだ。
それなのに、若い世代がそういう事実を知らず、年長者との関係が希薄なのが勿体無い。

日本人は、与えられた環境の中で精一杯努力する才能と、人と誠実に付き合っていく優しさを、みんなが等しく持っているはずだ。
パラグアイの日本人が、気づかずとも持っているものを、私たちは失いかけていないだろうか。

私にとって移民は、苦労した偉い人であることは変わらないけれど、苦労した分、優しくなって、やりがいをたくさん持ち、仲間を持つことが出来たうらやましい人たち、という存在になってしまった。

どこにいても、人間は苦労して、努力して、協力し合うことで、幸せを見つける。
パラグアイでも日本でもそれは変わらないことなのだ。

移民というと、特別な存在になってしまうが、彼らは同じ日本人だ。
日本にいることがなくても、日本人らしく強く生きている。
それは、とてもうれしいことだった。
日本の反対側に、自分の仲間がいて、幸せに生きている。

私はここで、日本人の持つ美徳に気づいた。
パラグアイの日本人が、自分と同じ血を持っていることが誇らしく、日本人であるということがうれしいと思うことが出来た。
だから、世界のどこかに生きている日本人が、日本にいる日本人を素晴らしい同胞だと思ってくれるように、私は日本で、日本人として強く生きていきたい。
誰かと共に苦労し、努力し、幸せを見つけて生きたい。

泊まっていた宿のオーナーのお父さんが「俺が帰るといつも同窓会になる。ガキ大将だったからね」と言っていた。
50年前に移住してきたという日系1世のおじいちゃん(見かけも立ち振る舞いもとても若いので、この呼び方は失礼かもしれません。ごめんなさい)が、まだ日本とつながっているということはうれしかった。
おじいちゃんが、まだ日本のことを思っていてくれることも、日本にいるおじいちゃんの友達が、50年間離れていてもずっと友達を忘れずにいることもうれしかった。

日本は間違いなく温かい国だ。

    

学校が出来るってどういうこと??

みんな、元気ですか?

今日、みんなに話したいのは学校のこと。
私はみんなに学校がどうして必要なのか、ずっと考えていたんだ。

学校建設に参加しといて、今更どうして??って思うでしょう。

最初は学校があったら、もっと可能性が広がって、みんながもっと幸せになれるって、勝手に思っていたんだ。

でも、みんなの最高に楽しそうな笑顔を見てしまったら、これ以上の幸せなんてあるのかと、学校を作ることが本当に良いことなのかわからなくなった。

今まで学校がなかったから、みんなは字を読むことも書くこともできないけど、必死で言葉を教えようとしてくれたね。
字を知らなくたって、友達になるために必要なことは何かを、みんな知ってたよね。

学校ができるって、みんなにとっとどういうことなんだろう??

私にはわからなかったけれど、みんな学校ができるのを楽しみにしていたね。


私は知ってる。

人間は平等じゃない。

世界には学校に行くことが義務の子どもも、戦争に行くことが義務の子どももいる。

30年前、カンボジアの子どもたちは地雷の隙間で生活していた。
みんなと同じ年くらいの多くの子どもたちが犠牲になった。
学校は閉鎖され、先生は殺され、教科書は燃やされた。
知識を持つことは悪いことだと教えられた。
勉強したいという希望は抑えこまれ、考える能力が奪われた。

30年前、ポルポト政権による大虐殺。
おじいちゃんもおばあちゃんも怖くて、そのときのことをまだ語れずにいる。
帰らない人を待ち続ける悲しさが身に沁みたから。

人間は平等じゃない。

神様の試練でもなんでもなく、ただ本物の悪意が突然襲い掛かってくることがあるのだと思う。

それでも、今、そんな月日を経て、みんなが笑っている。
それは神様の奇跡のようで、実は人間の力なのだと思う。

人間はすごい、生きているってすごい、みんなを見ると、そんな希望が見える。

みんなは、学校が出来るのを楽しみにしていたね。

だから、学校を作る理由なんて、私が考える必要はないのかもしれない。
みんなが喜んでくれる、それだけが大事なことだったんだ。

きっと、人間は学びたい生き物なのだ。
みんなを見てるとそう思う。

今度はきっと大丈夫。
満足するまで、たくさん学んで。


人間は平等じゃない。

でも、私たちは平等にしていく力を持っている。
希望を見つけ、育て、一緒に幸せになる力を持っている。

私たちの知っていることを、みんなが知る必要がないなんて、誰にも言えない。
私たちの持っているものを、カンボジアの子どもに持つななんて、公平じゃない。
知ることから生まれる可能性を誰にもつぶす権利はない。
もちろん、知ることはいいことばかりじゃないけれど、知ってどう行動するかはみんなが選べばいい。

そういえば、絵描きのかんなちゃんが学校の壁に描いた「笑っている地球」を見て、地球なんて見たことのないみんなは「お月様!!」と言って喜んでくれたね。
みんなが地球を知った時、学校の壁に描かれた笑う地球をどう感じるだろう。
みんなが、かんなちゃんが描いたような笑う地球に住みたいと思ってくれたら、私はそれがうれしいなぁ。
地球が笑っているためには、みんなが笑っていないといけないんだよ。

みんながこれからもずっと笑っていること、みんなの笑顔から幸せをもらった全ての人が願っています。

笑顔を忘れないで生きてください。
学校があってもなくても、それが一番大事なことだから。

遊び、学び、笑い、みんなが成長した頃、また会いに行くね。

それではまた。

    

トロンペアントム村のみんなへ

たくさんのものが見たくて旅に出た。
辿りついたトロンペアントム村で見えたものは、ずっと持っていたものだった。

この村で、みんなの素朴なやさしさに惹かれつづけた。
誰かのふとしたしぐさ、笑顔に幸せが満ちている。
子どもたちのはしゃいで転げまわる姿が眩しい。

ここには日本にあるような便利なものは、ほとんどない。
電気もガスも水道もないから、生活は太陽とともにあり、いつも自然に生かされている。
働く会社もないから、自分で家族を養うために、食べ物を育てる。
全ての食べ物を育てられないから、村で分け合う。
保育園なんてないから、お母さんが働いているとき、赤ちゃんの世話は子どもの仕事。
家族は支えあわないと生きていけないから、いつも触れ合いがある。
1日かけて編んだ「かご」は50円。
余分なものを買うお金はないから、本当に必要なものを考えて、それで満足できる。
洋服は大きくなってからでいい。
日本人が持っていく古着。
洋服のない子から順番に配っていく。
持っている子が「もっと、もっと」と言わずに「次はこの子にあげて」と言う。

ただ生きるために支え合う。
そこにやさしさが生まれ、感謝があふれている。

ここにあるもの全て、日本にあるけれど、あまりに多くのものに埋もれて隠されている。
私はいつから「もっともっと」欲しくなったんだろう。
「モノ」を求めて働くことが、生きるということ?
たくさんの「モノ」に囲まれて、周りからうらやましいと言われ、悦に入った先に見えるものが幸せ?
より優れたものを追い続け、私たちは物質的に豊かになった。
「モノ」を求める欲望に支配されて、いつも満足できない、しちゃいけない世界が作られた。
発展することが幸せだと信じていたら、足元に幸せが転がっていることに気づかない。

「毎日、本当に楽しいからここに来てる!!」
たくさんのボランティアから聞いた言葉。
そう、学校を作るのは彼らのためだけじゃない、自分が楽しいからだった。

ここにいると、日本にいるより、生きてるって感じがする。
生きるってこういうことかと思う。
思いきり笑って、感謝して、誰かのために働くこと。
そして、誰かが「ありがとう」と言ってくれて、感謝が循環していく。
幸せってこういうことかと思う。
感謝から思いやりが生まれ、自然に笑顔になってしまうこと。

毎日楽しくて、毎日感謝して、毎日たくさん笑った。
お別れの日に、子どもたちが自分たちの作った校庭で思い切り遊ぶ姿を見たら泣けてきた。
これからみんなと会えなくなると思ったからじゃなくて、あんまりに子どもたちが楽しそうで笑顔が眩しかったから、うれしくて仕方なかったんだ。
学校建設に関わったみんなや、村の人が「ありがとう」って言ってくれたら、なんだかもっと泣けてきた。

そういえば、「ありがとう」と言われて泣けることが、日本ではそんなになかったな。
誰かのために一生懸命に何かをしたときにしか、泣けないんだろうな。

それから、自分たちの手で作ってきた校舎が、明日からは見れなくなると思ったら悲しくなった。
一緒に校舎を作ろうと頑張っていた仲間と、しばらく会えないと思ったら寂しくなった。
毎日村中を走って追いかけた子どもたちと、明日からは会えないんだと思ったら辛くなった。

そうして、ずっと泣いていたら子どもが周りに集まってきてみんなで慰めてくれるから、涙がとまらない。
子どもたちは、あんまり泣きやまない私の手を引っ張って、自分のお気に入りの場所に連れて行ってくれたり、私をよっしー(旦那)のそばに引っ張っていったりしてくれた。

「明日も会えるよね」と言って、約束の小指を差し出す子どもたちに、私は何も言えなかった。
「明日、日本に帰るんだよ」そう言っても子どもたちは「明日も会えるよね」と言ってくるから、私は我慢できなくて「またいつか」と子どもの小指を握り返してしまった。

みんな元気で、いつものように今も走り周っているんだろうな。
いつものように笑顔全快で、幸せに暮らしているんだろうな。

「幸せ」って何か、日本で忘れかけてしまったら、そんなときは、きっとカンボジアを思い出す。
毎日が楽しかったのはみんなの思いやりがあったから。
ここで見つけた大切なものを、これからも忘れない。
ここで見つけた「幸せ」を、きっとどこかにつなげていく。

みんなありがとう。

 

P1080522.JPG P1080581.JPG