カンボジアの最近のブログ記事

愛センター最後の日

20080131_200801305.jpg 愛センター最後の日、夕方6時半。
あと1時間でここでの生活が終わる。

授業が始まる前から俺はもう感極まってしまってどうしようもない状況。
予想通り情けない・・・。
最後の最後、一番頑張らなきゃいけないところなのに声が出ない。声を出した瞬間に胸の中が爆発してしまいそうで、引きつった笑顔を作っておくのが精一杯だった。

授業が始まった瞬間、生徒達の「せんせい、こんばんわ~」の号令を聞いた瞬間にその全てが壊れた。
いきなりの退室。未完成のトイレの前、1人で大号泣。
どう考えてもこの状況であと1時間はもたない・・・。

教室では生徒達が俺達にメッセージをくれている。それがこの場所まで何となく聞こえてきた。
葵は今、1人でそれを聞いている。

戻らなきゃ・・・。

キツいけど戻らなきゃ・・・。

生徒達は、日本語や英語で一生懸命、俺達に言葉をくれた。
「せんせいがきてからほんとうにまいにちたのしかったです。」
「からだにきをつけて、これからもがんばってください。」
「まいにちハッピーでいてください。」
「トイレ、ありがとうございました。」
「ぜったいまたカンボジアにきてください。」

そして葵ちゃん、大爆発で退室・・・。

1人になった俺は生徒達の目を見てあげられなかった。
あんなに一生懸命メッセージをくれている生徒達にちゃんと言葉を返してあげられなかった。
ただその生徒の目を見ていることが精一杯だった。
ここに立っているのが辛かった。

「わたしは、あまりにほんごをはなせませんから、あんまりおはなしできなくてごめんなさい。でもやくそくします。こんどせんせいがカンボジアにもどってくるまでにもっとべんきょうして、もっとおはなししたいです。だからぜったいまたきてください。」

ある生徒が日本語でくれた言葉。

お前、そんだけ日本語で喋ってたら十分だよ。俺なんか、クメール語なんて全然できないよ。簡単な挨拶と簡単な数字しかわからないんだから。もっとクメール勉強すればよかったね、ごめんな。

俺は結局、この1時間泣きっぱなし・・・。


本当にいい学校にお世話になったと思う。
みんな素直ないい子で、誰一人として憎たらしい子なんかいない。

そもそも俺は教育のプロフェッショナルでも何でもなく、ボランティアとして参加したものの、彼らに何も教えてあげることができなかった。
毎日、教えられてばかりだった。
それでも子供達は「せんせーせんせー」と呼んでくれた。

ほんとにほんとにありがとう。


俺は、自分の身を削ってまで人のために何かできるほど大きな人間じゃない。
ボランティアって言ったって、自分の経験のために参加してみたかった部分がかなり大きい。
「人のためにがんばる!」というよりも、そのあとに言ってもらえる「ありがとう」を期待していた。
誰かに頼られてる感覚や、何かを成し遂げた達成感を味わいたかっただけだった。

こんなことを言ったら、本気でボランティアしている人に怒られてしまうかもしれない。

でももし、「ありがとう」という言葉や、それに代わる心の見返りがないところで俺はボランティアなんてできるのだろうか?
それは正直、不安なところだ。

今回、お世話になったフリースクールでは、十分過ぎる程の心の見返りがあった。
子供達は俺達を必要としてくれたし、その元気な姿に俺達はいろいろな感情をもらった。
別れの際、泣いてくれた子もいた。
いつもは攻撃をしてくるのに、最後はその小さな手でギュッと抱きしめてくれた子もいた。

「ボランティアをする」というと「やってあげる」的な少し上から目線になってしまうのかもしれないが、俺達はそんなに偉いもんじゃない。
今回それをよく理解できた。

見返りを求めている以上、俺達がこの学校でしてきたことは本当の意味でのボランティアではなかったのかもしれない。
トイレを作ったことがボランティアではないのかもしれない。


でもね、子供達や先生方とみんなで一緒に「笑顔の共有」が出来たことには心から満足してるし、誇りに思う。


これからも一つでも多くのステキな出会いをしていきたい。

キリングフィールド

20080127_0801251.jpg 1975年から3年8か月20日間のポルポト時代、国民は強制的に農民にされ、田んぼや畑で働かなければならなかった。

ポルポト時代には人口の30%200万人くらいの人が死んだといわれている。
前の政権で働いていた人、医師、外国語が話せる人、教師等の知識人は全員殺された。
また眼鏡をかけている人も知識人とされ、殺された。
さらにはソフトハンドと呼ばれた人(手が柔らかい人は農民ではなく知識人だと思われた)も殺された。

なぜか?

知識を持った人間を生かしておくと、あとで復讐される恐れがある。
それを恐れたポルポトは、知識人や裏切り者のどちらか少しでも疑いのある人間を生かしておかなかった。
完璧な共産主義を目指した。

その、死刑場に使われたのがここキリングフィールド。

1979年、ベトナム軍がプノンペンに侵攻し、戦争でポルポトが敗れた後、たくさんの人が田舎からプノンペンに戻ってきた。
プノンペン中心から15キロくらい離れた「チュン・エク」(中国人のお墓)に戻ってきた人たちは、死体の匂いに気づき、そこで無数の死体に気が付いた。
1980年、新しい政府はこのキリングフィールドの穴を掘り始め、今までに86個の穴が掘られ8985体の骨が見つかっている。
しかし、これらは全てではなく、あと43個の穴が湖の下に眠っている。そこにはまだ1万人以上の遺体が眠っているとされているが、湖に埋まってしまった穴は掘り起こすのに莫大な金がかかるため、未だにできないでいる。

穴からは今でも、雨になると犠牲者の骨や服が出てくるらしい。
しかし、毎年たくさん雨が降るせいで、キリングフィールドの穴は次第に小さくなり、たくさんの穴が湖に沈み、将来、この穴は全て無くなってしまうかもしれないといわれている。
そのまま埋まってしまう1万人分の骨の中に魂が残っていたら、自分たちがそこに埋まり続けることをどう思うだろう。

キリングフィールドでは2万人の人が殺されたと推定されているが、そのうちのほとんどがトゥールスレンの囚人で、その他の人はプノンペンに住んでいた知識人たちだった。
トゥールスレンについては前の日記を参照してほしい。
彼らのほとんどは田舎に住み、あまり教育を受けたこともない無実の人たち。しかし彼らは理不尽な疑いをかけられ、拷問されて殺される。

また、トゥールスレンの拷問スタッフ、またキリングフィールドで処刑をしていたスタッフ達は、仕事をしなければ殺されてしまうため、友達でも、家族でも殺さなければならなかった。
もし働かなければ、裏切り者とされ、自分が拷問をされてしまう。自分が処刑されてしまう。
ここで働いていたスタッフ達も歴史の犠牲者だ。

キリングフィールドの場所は当時隠されており、「秘密を守ること」が一番大切だったため、処刑は夜に行われた。
たくさんの囚人を一度に処刑することはできなかったため、囚人たちは目隠しをされ足枷をつけられ「死を待つ部屋」で自分の順番を待たされた。
彼らは自分が処刑されることを知っていたという。
キリングフィールドから生き残った人は一人もいない。
処刑の方法には、頭を木の棒で叩いて殺す方法、刃物で刺して殺す方法、ヤシの木の枝のとげで喉を刺して殺す方法、首つり、子どもの足を持って木に打ち付けて殺す方法などがあった。
また、スレンという毒薬の致死量を調べるための人体実験もしていた。

いずれにせよ、お金がかからず、音が出ない方法での処刑で、銃の使用はなかった。
銃を使わないのは、音が出て秘密がばれる可能性があることと、銃の玉の値段が高いためだ。


昔は秘密の場所だったこの場所も、今では当時の様子を観光地としてはっきり残している。
生きた子どもを打ち付けた「キリングツリー」や首つりを行った太い木もそのまま残っている。

今、私達がこの場所に立つ意味とは、この歴史を繰り返さないことを誓うためである。
慰霊塔に眠る頭蓋骨には斧や棒で処刑されたことを物語る傷があるものが多く、歯が未だに残っているため、記憶は新しいものとして生々しい。たった30年前の事実。

しかし、この凄惨な歴史を、今の若いカンボジア人はあまり知らないのだそうだ。
現在のカンボジア人でも親籍が全員無事にポルポト時代を生き延びたという一家は数少ない。
それなのにポルポトのことを伝えられない理由は、今でもポルポトの勢力が残っている可能性におびえているからだという。
今の王様も以前にポルポトと繋がっていたことがあるため、学校でも教師が怖がって、ポルポトのことを子どもに伝えることができないそうだ。
強制的に搾取されるということは、人の心に恐怖を生み、正義の心や反抗する心を摘み取ってしまうのだろうか。
カンボジアの人々はまだポルポト時代の傷を抱えて生きている。
精神的な面だけでなく、ポルポト時代に学習の機会を奪われたカンボジア人の識字率は低く、そのせいで経済発展に歯止めがかかっているとも言われている。
また、田舎で暮らす人々は子どもに知識を持たせることを今でも恐れ、子どもを学校に行かせないという事実もある。

ポルポトの歴史をカンボジアの人たちが忘れずに、前へ進んで行くことができるよう祈ります。

私達は信じています。

だって、フリースクールの子ども達は、毎日元気いっぱいで私たちに笑顔をくれるから。

色鉛筆で「I LOVE YOU」

20080125_0801231.jpg 色鉛筆で絵を描く授業をした。
課題は「好きなもの」。

驚くことに、何を描くかに悩んだ子どもがいなかった。
みんな、描きたいものがすぐに決まる。
絵にしてもなんにしても、カンボジアの子どもは自分の思いをすぐに表現することができる。
誰かの顔色を伺って、何をするか左右される子など、ほとんどいない。
だから、20人以上いるクラスの中で、誰かと同じような絵を描く子はいなかった。

きっと普段から、自発的に自分の行動を決めるくせがついているのだ。
なにもかもやってあげてしまう日本とは違って、お父さんもお母さんも忙しいから、みんな自分のことは自分でしなくてはならない。
だから日本の子どもより、自分で何かを決めることが得意なのだと思う。

それからもうひとつ感心することは、子どもたちがすすんで、授業前の準備や後片付けのお手伝いしてくれるということ!!
例えば、足りない机や椅子があったら、自分のものでなくても運んでくる。
ホワイトボードに授業中に先生が何か書いたら、当番でもないのに誰かが必ず消して、次の授業の準備をしてくれる。
小学校1年生くらいの子どもでも、お片付けがしっかりできるのはすごい!

これも普段から、家の手伝いをすることが、生活の一部になっているから出来ることなのだろうな。
お手伝いを楽しそうにしてくれるのは、家のお手伝いをして家族に褒めてもらえたり、「ありがとう」と言ってもらえたりして、人の役に立つことはうれしいと知っているから。
今の日本では出来てないことだなぁ、と彼らを見て思ってしまう。
豊かになりすぎて、昔は家の生活で自然に子どもが学べたことが、今の日本ではできなくなってしまっているのではないかしら。

カンボジアでは学校で音楽もなければ美術の授業もないそうだけど、絵を描いている時間はみんながすごく楽しそうで、やる気もまんまん。
ちょっと描くと、すぐに私のところに持ってきて「先生、どう?どうしたらいい?」と聞いてくる。
私が美術の先生だったら、全員に意欲の項目は100点をあげちゃう。

心配していたのは、色鉛筆の数少ない色の問題。
フリースクールにある色鉛筆は全部で6色くらい、ほとんどが寒色系で、暖色は全部で5本くらいしかなかった。
暖色の色鉛筆が取り合いになるんじゃないかと少しハラハラしていたけれど、みんなが喧嘩することもなく、貸し合って絵を完成させることが出来た。
もともとものが少ないから、みんなで一緒に使うということが自然に出来てしまうんだよね。
独り占めするより、みんなで一緒に楽しみたいという考え方が自然に身に付いている。
これってすごく、素敵なことだ。

そんなふうに、みんなが優しくて一生懸命だったから、とっても味のある絵が描けた。
私からはみんなに「I LOVE YOU」と描いた。
みんなの絵の中にもたくさんの「I LOVE YOU」が描いてあって、温かい気持ちでいっぱいの授業になったのだ。