人の思考は、育つ国の言語に影響されている。
国民性は言語から生まれるといっても過言でないほど、言語は私たちに影響を及ぼしている。
なぜそんな話しをするかというと、アイルランドに行った時、気になることがあったからだ。
誰を見ていても話す言葉が英語なのに、街に掲げられた看板には英語のほかに見慣れない言葉が書いてある。
これって何語だろう?
そう思って街の人に聞いてみると、ゲール語と呼ばれるアイルランドに昔からある言葉だそうだ。
日本では公用語は日本語ひとつだが、世界には公用語がひとつではない国も多い。
アイルランドでは、日常生活の中でより多く使われているのは第二公用語の英語で、ほぼ100%のアイルランド人が英語を話せるのに対し、第一公用語のアイルランド語に関してはたったの2~3%だそうだ。
何世紀にも渡って英国支配を受けてきたことで、母国語は社会から消えゆきつつあるという。
アイルランドがどういう国かというと、北海道とほぼ同じ約7万平方キロ・メートルの国土に、350万人の人々が住んでいる。
小さな国だが、総兵力1万1千人の軍隊もあれば、公選で任期7年の大統領も置かれている。
そして何より、行って見て思ったことは、なんて自然の豊かな島なのだろうということ!!
黄緑の草原に羊が歩く風景がどこまでも続いていくかと思えば、大きな岩山が突然姿を現し、見るものを圧倒する。
そこかしこにある湖には小鳥が溢れ、胸をくすぐられるような鳴声に満ちている。
夕日の沈むか沈まないかくらいの時間の空は、考えられいくらい幻想的に薄紫、桃色、橙、赤と色を重ねてゆく。
高い建物なんて中世のお城の遺跡くらいだから、ほぼ360度幻想的な空に包まれてしまう。
毎日この光景を見ることができるなんて、アイルランド人ってなんて贅沢なんだろう!!
そう思いながらも、日本の紅葉だって負けてないんだからって思い返してみたり。
私は思う。
言葉によって国民性は作られていく。
でも、言葉は、その国の環境によって作られてきたのだと。
だから、いくらよその国の人がその国の言葉を勉強しても、その国の言葉の感覚的な、もう言葉の匂いとでもいうようなものを本質的に理解することは難しいだろうと思ってしまう。
その国の言葉を勉強するなら、その国の環境に身を置かないと、言葉の匂いは手に入らない。
例えば、五月雨と言ったら、意味は5月に降る雨だけにとどまらないけれど、そんなこと日本人以外の誰が気にするの?
私は日本の小説を読むと、ボキャブラリーが豊富で言葉によって想起されるイメージが楽しい。
日本人は読書離れしていると言われるけれど、なんだかもったいないなぁと思う。
以前は塾に勤めていたから子どもたちと話す機会がたくさんあった。
彼らはゆとり教育の影響で国語の授業時間が減ったためか、覚えている言葉のボキャブラリーも少なく、言葉の使い方もなんだかちぐ
はぐな時がある。
このまま行けば4世代先の人とは意思疎通ができなくなるのではと思うくらいに、今の言葉は簡略化され、英語のように直接的で重要な言葉が生き残っている。
それってなんだか、違うなぁ。
日本らしくないなぁ。
そう思うのは私だけじゃないよね?
せっかくの美しい自然と四季から生まれてきた言葉のある意味を、私たちはもっと考え、楽しみつつ後世に伝えていきたい。
それは今を生きる私たちの仕事だと思う。
さて、アイルランドはというと、現在ゲール語を話せる人は繰り返しになるが人口の2~3%。
そこで国は、母語復興のためのさまざまな努力をしており、小学校から高校までアイルランド語が必修科目になっている。
さらに大学受験の時の必須受験3科目にもアイルランド語が入っている。
しかし、普段使うことがないため、私たちの英語のように、学校を卒業してしまえばすぐに忘れられてしまうというのが現状のようだ。
国民には「アイルランド語が話せても意味がない」という人も、逆に「国民はアイルランド語を話せるべきだ」と主張する人もいる。
その言語を失うということは、それに関連する文化や思想なども失うということにつながる。
文字で伝承されたものも読み取れなくなるのだから、その国に育った特有の良き伝統や知恵も理解されなくなっていく。
他国の人が勉強しても、アイルランドに住んでいたことがなければ、きっと言葉のもつ本質的な意味や温度はわからないだろう。
ゲール後を話したケルト民族、さらにそれ以前の民族による多くの世界遺産をもつ独自の文化的アイデンティティが失われていくのは世界的に見てもさびしいことだ。
やはりアイルランドにはゲール語が残るべきだと、私は考えてしまう。
日本に日本語を残すべきだと思うのと同じように。
普段何気なく使っている言葉も、こうして考えるとなんだかいとおしくなるのだから不思議だ。
さぁ、言葉をたくさん使いましょう。

